野沢菜発祥の地 野沢菜物語 ここが本場《蕪元》


『野沢菜』とは、宝暦6年(1756)頃、野沢温泉村健命寺第八代住職晃天園端大和尚が京都遊学の際、持ち帰りし天王寺蕪の種子が当村の地味に合い、美味なる「お菜」に突然変異したものである。

江戸時代頃から野沢温泉は湯治場として知られていました。大正時代になると、スキー場が開設され、以後日本のスキー史とともに歩んでいる野沢温泉には、スキー客や湯治客がたくさん訪れました。その時に、スキーヤーや湯治客達は、蕪菜のおいしさに感激し、地名のついた野沢菜が定着していったとされています。
野沢菜という呼び名は後からつけられたもので、蕪菜と読んでいました。健命寺の寺種の袋には今でも蕪菜・蕪種と書いてあります。また、地元の人は、お菜やお葉漬けと読んでいます。
第二次世界大戦後には、野沢温泉に入り込み客が急増、またマスコミが食文化として野沢菜漬けを盛んに取り上げるようになり、全国各地に野沢菜は普及していきました。野沢菜は信州の食文化として、今でも多くの人に愛され続けています。
野沢温泉では野沢菜を作る畑を「麻畑」と呼んでいます。晩秋に蒔いた種は5月に入ると1m近くに成長します。そしてレモンイエローの菜の花が鮮やかに村々を埋めつくすのです。うっすらとした黄緑色の茎の上にひろがる黄色いカーペットのような、それは一瞬、見る人の心を覚醒させるようなキラキラと輝く光景です。菜の花が散るとやがて種の収穫が始まります。6月上旬〜7月上旬にかけて、梅雨の晴れ間を見つけて収穫します。これを軒先につるして陰干しにして、よく乾いたところで棒でたたいて種を取るのです。
健命寺で収穫された種は寺種として全国各地から買い付けに問屋さんがやってきます。そして取り入れの済んだ菜畑では、株を抜き取り菜がらを焼きます。この後、除草をし耕し、有機肥料をたっぷりすき込んで、再び種まきに備えるのです。
漬け菜用の野沢菜の種まきは、「七夜盆」といわれる8月27日、28日頃までに行われます。長野市などの善光寺平では、白露の頃の9月前後が種まきの適期ですが、雪の早い野沢では種まきも早まるというわけです。
野沢の夏は短く、7夜盆を過ぎると朝晩はめっきり涼しくなります。

種を蒔いてから3日もすれば芽を出します。5〜6日して一番間引きをします。これを湯がいて食べるわけですが、野沢の人たちは「鯛の刺身よりうまい」と言って、この野沢菜の初物を珍重します。間引きは10月中旬までに5回ほど行われますが、「3番間引き」以降は10cm以上になり、これは「当座漬け」にします。
あの道祖神祭りの御神木を、ブナ林へ引き出しにゆく頃、冬は毛無山からやってきます。野沢菜の収穫が始まるのもその頃。11月初めから半ばにかけて村の菜畑のあちこちでは忙しい取入れが行われます。

そして北信濃の風物詩とも言われるお菜洗いが始まるのです。
早い年では、初雪も舞い、季節は晩秋で野沢はもう初冬、木枯らしが上ノ平高原の黄金色に輝くブナの葉を吹き飛ばしてゆく頃です。
でも、お菜洗いは外湯の中。野沢の女性達は、ここで世間話に興じながら、ていねいに1mほどもある野沢菜を洗うのです。 洗い清められた菜は、一石桶と呼ばれる大きな桶に、各々の家伝の教え通りに大量の漬け込みが行われるのです。
年が空けて、あの勇壮な日本三大火祭りの一つ、「道祖神祭り」が始まる冬が旬頃には、美味なる野沢菜漬(お葉衝けが味わえるようになります。